教えのやさしい解説

大白法 685号
 
現世安穏・後生善処(げんぜあんのん・ごしょうぜんしょ)
現世安穏・後生善処の出処(しゅっしょ)と意味
「現世安穏・後生善処」とは、法華経の『薬草喩品(やくそうゆほん)第五』の中に説かれる句です。
『薬草喩品』では、
「是(こ)の諸(もろもろ)の衆生、是の法を聞き己(おわ)って現世安穏にして後(のち)に善処に生じ、道(どう)を以(もっ)て楽(ぎょう)を受け、亦(また)法を聞くことを得(う)
(法華経 二一七)
と説かれ、法華経を聴聞(ちょうもん)し、信受することにより、現世は安穏に暮らすことができ、後生は善処に生まれることができると説かれています。
 これについて天台(てんだい)大師は、
「若(も)し人天(にんてん)法を聞き戒を持(じ)し、福徳(ふくとく)身を扶(たす)け、鬼龍(きりゅう)犯さざるは、即ち是(こ)れ現世安穏なり。或は天より還(かえ)って天に生(しょう)じ、人(にん)より還って人に生じ、或は天人互(たが)いに生ずれば、即ち是れ後生善処なり」(法華文句記会本中四一〇)
と、人天の衆生が、法華経の聞法(もんぽう)信受の功徳によって、障礙(しょうげ)から離れることを「現世安穏」、また人天として磐石(ばんじゃく)な生を受けることを「後生善処」であると釈しています。

三類の強敵(ごうてき)の難
 
さて、宗祖日蓮大聖人の御在世には、伊豆(いず)配流や小松原(こまつばら)法難など、大聖人と門下(もんか)の僧俗に三類の強敵による様々な難が起こりました。
 当時の僧俗の中には、「現世安穏・後生善処」と説かれる法華経の文(もん)と違うのではないかと、疑いを生じて退転してしまう人々がいました。しかし、末法に御本尊を信仰し、折伏する者に三類の強敵(ごうてき)が起こるのは当然のことであり、むしろそれは大聖人の仏法が正法(しょうぼう)であることを証明していることになるのです。
 大聖人は『開目抄』に、
「我(われ)並びに我(わ)が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくは、自然(じねん)に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ」(御書 五七四)
と、三類の強敵等による諸難が起ころうとも、疑うことなく正法への信仰を続けるよう戒(いまし)められています。退転してしまった人々は、これらの正法信仰の心構(こころがま)えを、肝心な時に忘れてしまった拙(つたな)き者というべきです。
 私たちは、
「あひかまへて御信心を出(い)だし此(こ)の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就(じょうじゅ)せざるべき(中略)『現世安穏、後生善処』疑ひなからん」(同 六八五)
と仰せられるように、たとえ魔の用(はたら)きが起ころうとも、御本尊を信じて唱題していくところに、「現世安穏・後生善処」と仰せられる現当二世の功徳があると拝することが大切です。

御書に拝される意義
 この「現世安穏・後生善処」の功徳について、大聖人の御書には、正法(しょうぼう)信仰の功徳により世間に通達(つうたつ)する智慧を得(え)て、しかも難から守られるなどの意義が拝されます。
 まず、世間に通達する意味については、
「天(てん)晴れぬれば地(ち)明らかなり、法華を識(し)る者は世法を得(う)べきか」(同 六六二)
と大聖人が仰せられるように、御本尊を信じ、信心修行に励むならば、あたかも天が晴れていると万物(ばんぶつ)の一切がよく見えるように、あらゆる世法の物事に正しく対処していくことができる功徳が具(そな)わり、「現世安穏・後生善処」の筋道(すじみち)が顕れるのです。
 次に、正法信仰の功徳により難から守られる意味については『新尼(にいあま)御前(ごぜん)御返事』に、
「末法の始めに謗法の法師(ほっし)一閻浮提(いちえんぶだい)に充満して、諸天いかりをなし、彗星(すいせい)は一天にわたらせ、大地は大波(おおなみ)のごとくをどらむ(中略)諸人皆(みな)死して無間(むけん)地獄に堕(お)つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅(だいまんだら)を身に帯(たい)し心に存ぜば、諸王(しょおう)は国を扶(たす)け万民は難をのがれん。乃至(ないし)後生の大火炎を脱(のが)るべしと仏記(しる)しをかせ給ひぬ」(同 七六四)
と仰せられるように、謗法が国土に充満しているために、諸天善神が怒(いか)りをなして起こす天地の災難であっても、信心修行に励む者には難を逃(のが)れる功徳が具(そな)わるのです。
 かつての阪神(はんしん)・淡路(あわじ)大震災や、昨年のスマトラ沖(おき)大地震による大津波(おおつなみ)の際も、多くの人命が失われるなか、日蓮正宗の信仰者に一人の物故者(ぶっこしゃ)もいなかったことは、まさしく正法信仰による「現世安穏・後生善処」の功徳というほかはありません。

さらに一歩進めん
 さらに一歩進めて御書を拝すれば、『四条金吾殿御返事』に、
「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふるより外(ほか)の遊楽(ゆうらく)なきなり。(中略)遊楽とは我等が色心依正(えしょう)ともに一念三千自受用身の仏にあらずや。法華経を持(たも)ち奉るより外に遊楽はなし。現世安穏・後生善処とは是なり」(同 九九一)
と仰せられるように、私たちが御本尊の前に座り題目を唱えるとき、私たちの凡身はただちに本仏本法の法界(ほうかい)に境智冥合(きょうちみょうごう)して即身成仏を遂(と)げるのですから、この御本尊への信心口唱(くしょう)それ自体に「現世安穏・後生善処」の絶対境界(きょうがい)が顕れていることを確信すべきです。
 故に『最蓮房(さいれんぼう)御返事』に、
「法華経の行者は信心に退転無く身に詐親(さしん)無く、一切法華経に其(そ)の身を任(まか)せて金言(きんげん)の如く修行せば、慥(たし)かに後生は申すに及ばず、今生(こんじょう)も息災延命(そくさいえんめい)にして勝妙の大果報を得(え)、広宣流布の大願をも成就(じょうじゅ)すべきなり」(同 六四二)
と仰せられるように、一切を御本尊にお任せして、日夜、御金言(ごきんげん)のごとく自行化他の修行に励むことこそ最も大切であり、そこに現当二世にわたる磐石な境界を築く、「現世安穏・後生善処」の功徳が顕れるのです。
 さあ、三年後に迫(せま)った「『立正安国論』正義(しょうぎ)顕揚七百五十年」の大佳節(だいかせつ)に向けて、いよいよ励んでまいりましょう。